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Live Wireのホームグラウンド「Biri-Bire酒場」

〒160-0022
東京都新宿区新宿5丁目11-23 八千代ビル2F (「地鶏ちゃんこ料理・ぢどり家」の左、階段を上がる)<地図> TEL 03-6273-0430
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■東京メトロ丸ノ内線&副都心線 新宿三丁目駅B2出口から徒歩6分

Ikana-Go.jpg平日650円均一(サラダバー&コーヒー無料)ランチ営業中。

ビーフシチューセットBiri−Biriカレー (+日替わり)
←新メニュー:Ikana-Goラーメン(「いかなご」ベースの、節も魚粉も使わない全く新しい第三の魚系ラーメン/一日10食限定)

【これからのPPV中継予定】 2/1(金)19:30〜杉江松恋のガイブン酒場#3
【blog最新】トークライブ「Live Wire」Inside :シリアを闊歩する「戦場の見学者」

Live Wire#40

LEFKADA450x160.jpg 8/23(火)「AV監督失格!Vol.2 
           ヌケないAV監督からパンクドキュメンタリスト誕生までの軌跡

全三回連続来場者には監督&関係者サイン入りポスタープレゼント!

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ゲスト:岩井志麻子(作家)、東良美樹(AV評論家)、小室友里(元AV女優/タレント)
※今回も、平野&ゲストのコメンタリーを加えつつ、AV監督時代(後期)の名作をよりすぐって上映。


AV監督・平野勝之諸作品を分析した記念碑的評論文
特別寄稿「平野勝之とは何者なのか?」 東良美季

 「SEXレポート No.1美人キャスターの性癖」(1995)
 「聖☆痴女 小室友里」
 「Last Secne Yuri Komuro」
 「プライバシーゼロ 秘密ライフ」
 「わくわく不倫講座 楽しい不倫のススメ」

後援:『監督失格』製作委員会  「監督失格」公式HP http://k-shikkaku.com/
協力:V&Rプランニング、h.m.p、「アリスJAPAN」

 平野勝之はAVの常識をことごとく裏切ることで注目を浴び、そして孤立してきた作家だ。
 前回vol.1では、AVの枠をぶち壊すパンキッシュな作品を見ていただいたが、今回はいよいよ、そのキャリア後半、「由美香」から始まる自転車三部作に直接つながるドキュメント的作品が登場してくる。ここで平野がAVに持ち込んだ爆弾は「恋する視線」だ。

 前回の上映作品「21歳」は、気持ちのバランスを崩した女優と二人きりの部屋で進行する、気まずく滑稽な空気感を、切実なドキュメントに昇華させた名作だった。平野はこの方法論を徹底して推し進め、他のAV監督がフレームの外に捨ててしまった、「恋愛における猥雑物」=口説き、見つめ、ベッド以外でもじゃれつきあう姿、喧嘩し不機嫌になった時のお互いの居づらさーーひと口で言えば「恋愛のめんどくささ」のすべてをカットせず記録しつづけるようになったのである。
 本来のAVはそんなめんどくさいプロセスをフリーズドライし、「抜く」事に専念させる“道具”だが、平野の志向したのは 180度逆の方向性。ひとりの女に発情し、ひたすら密着し続けるリアルで濃密な時間とその貪欲な視線は、まるでフランソワ・トリュフォーの恋愛映画のようでもある。ひたすら対話し、“恋愛”のウダウダすべてを記録し続ける平野は、「AV監督」ではなく「カメラを抱えた恋人」として女優と向かい合う。
 その狂おしいまでの執着心が「由美香」やさらにその先の「監督失格」へとつながっていくのだ。
 今回はホラーというジャンルで同じく恋愛の狂気を描く小説家・岩井志麻子と、かつてその平野の熱視線をその身で実際に受け止めた元 AV女優で現在はお芝居や執筆を中心に活動している小室友里を迎え、平野の“恋する視線”を女目線から徹底的に語り尽くす。

*本イベントは都条例により18歳未満の方の入場はお断りいたします。 当日入場の際に年齢の確認できる身分証(免許証、学生証、社員証、パスポートなど 公共機関が発行する顔写真付き公的身分証明書)の提示が必要となりますので予めご了承ください。 また、未成年者へのアルコールの販売も固くお断りいたます。

『AV監督・平野勝之とは何者なのか?(仮題)』

文・東良美季
協力・V&Rプランニング

【筆者注】
本稿はAV情報誌『ビデオメイトDX』(コアマガジン)に、「ヴィンテージ〜作家別AV作品研究・平野勝之編」として、2003年6月号から2004年5月号まで掲載されたものです。これはシリーズ企画であり、まずは伊勢鱗太朗から始まりカンパニー松尾、バクシーシ山下と続き、次がこの平野勝之。その後も井口昇、さいとうまこと、小路谷秀樹、代々木忠、豊田薫と続きました。途中「カンパニー松尾のところで」というような表現が出てくるのはそのためです。(東良美季)

【第1回】

バクシーシ山下の登場により甘美な物語性の終焉を迎えたAV、
しかしそこにはすでに新しい物語が始まっていた。
それは、どんなメディアより過激で暴力的で自由な映像が可能な媒体。
平野勝之作品研究篇、今月よりスタートです。


 さて、平野勝之である。このひとに関しては本当に語るべきコトがたくさんある。たくさんあり過ぎて何処から始めればいいのか迷ってしまうくらい。とは言え、現在本誌『ビデオメイトDX』を読んでいる読者の人達──主にセル、インディーズ系のビデオを愛好する人、特に、デマンドやムーディーズ等メジャー系セルを見てる人なんかにはまったく情報が無いかもしれないので簡単に幾つか箇条書きにしてみよう。

 まずは〈その1〉、平野勝之は元々ぴあフィルムフェスティバル(以下PFFと略)出身の自主映画監督であったということ。
 その経歴をざっと列記すると、十八歳から地元浜松で8ミリフィルムによる自主映画活動を始め、一九八四年、二十歳の時に長編8ミリ映画『狂った触角』で一九八五年度PFF初入選。翌年一九八六年度には『砂山銀座』で、翌々年一九八七年度は大友克洋原作の『愛の街角2丁目3番地』で連続入選。特に『愛の街角〜』は招待審査員大島渚氏の激賞を受けたうえPFFアワード観客審査第一位に選ばれ、その後パルコ・ステージラボのレイトショーにて異例の六カ月ロングラン上映された。当時平野勝之は『俺は園子温だ!』の園子温、『おでかけ日記』の小口詩子、そして平野自身が主演をつとめた『はいかぶり姫物語』の斉藤久志らと共に次世代の映像の旗手と言われたそうだ。尚、当時PFF三年連続の入選というのは平野勝之だけが果たした快挙。ちなみに先々月本誌でミニ・インタビューが載ったAV監督の井口昇を始め、宇宙企画等で活躍するやはりAV監督の小坂井徹、ライターの原達也などが当時からの仲間(今号、画面撮り右上のカッパのような扮装の男が原さん、隣が井口くん)。
〈その2〉それ以前は早熟な少年マンガ家であった。故に、平野のAV作品には自身による少々不気味なイラストが時々登場し、小型カメラによる映像も非常に絵画的である。マンガ家時代のキャリアを記しておくと、一九八〇年、十六歳。マンガ批評誌「ぱふ」八月号にて『ある事件簿』でデビュー。翌八一年、『雪飛行』で「SFリュウ」誌の月例新人賞受賞。八二年、『PURE JAM』で講談社「ヤングマガジン」新人賞受賞、八四年、『ゲバルト魚』で同じく「ヤングマガジン」ちばてつや賞佳作入選、となる。
〈その3〉コレが実はいちばん重要なのだが、平野勝之は自主映画時代より『ポストダイレクトシネマ』の旗手と呼ばれていた。『ポストダイレクトシネマ』というジャンル、もしくは手法については次回以降詳しく解説していきますが、平野がこの手法をもってAVにも取り組んだコトはいうに及ばず、この手法はアダルトビデオというもを語る上で非常に重要なファクターになるという事。一九九九年に平野勝之が劇場公開した『白〜THE WHITE』はポストダイレクトシネマの傑作であり、おそらく日本映画の中で最も深い所へと切り込んだ大傑作である──、と少なくとも僕は思っている、という事。
〈その4〉平野勝之はAV創世期以来、エンエンと過激なドキュメンタリーだけにコダワリ続けている高槻彰率いるシネマユニット・ガスのメンバー。高槻というトンでもない個性がいなければ、平野勝之というトンでもないAV監督は生まれなかっただろう、という事。
〈その5〉カンパニー松尾、バクシーシ山下、そして平野勝之、さらにはゴールドマン、九〇年代にこれらの新しい才能が生まれ、全員がそれぞれに刺激し合い競い合い、「イヤハヤ、AVってこんなに面白くてイイの?」と僕なんかシミジミと思ったものデス、という事。
 そして〈番外〉として、これら重要な部分の中核が安達かおる率いる(カンパニー松尾制作部長による)V&Rプランニングという場所で作られたという事。その影響によって後年、インジャン古河、竹本シンゴ、シンプルSANO、WATARUX等々、個性的な才能が登場し今後もまだ続きそうだという事、である。

 で、取り敢えず今回書いておきたいのは九〇年代初頭、「イヤハヤ、AVってこんなに面白くてイイの?」と思ってしまったという事。これはたぶん僕だけの印象ではないと思うのだが、例えば以前、死体カメラマンとして有名な釣崎清隆くんに会った時、彼も「山下さんや平野さんのAVを見ていると、ココから日本の映画というものが変るんじゃないだろうかと思った」と語っていた。
 つまり、先月からの流れで言うと、八〇年代後半、AVというものが持つバブリーが欺瞞性がカンパニー松尾による小型カメラ、ハメ撮り、ロードムーヴィというモノによって解体され、続いてバクシーシ山下が登場するに至り、AVの持つ甘美な物語性は終焉を迎える。で、平野勝之が現れた時にはすでにAVは新しい物語性を獲得していたというコトになる。新しい物語性とは何か? それは「AVとはとんでもなく過激にも暴力的にもアヴァンギャルドにもなれる、どんな映像よりも自由なメディアである」というコトだ。もちろん現在はビデ倫等の規制も厳しくなり、特にレンタル系のAVではそのような可能性は見出せないかもしれない。しかしこういった動きが現在のセル、インディーズ隆盛と決して無関係で無かったと僕は思う。

 最後に、一九九七年『20世紀のアダルトビデオ』というムックのために行われたカンパニー松尾、バクシーシ山下、平野勝之による鼎談のリード用に書いた文章を引いて今回は終わります。
「九〇年代初頭、バブル崩壊の波が村西とおる率いるダイヤモンド映像を始めとするいくつかの勢力を押し流した後、アダルトビデオは大きな変化を見せた。しょせんは裸のアイドル達の動くビニ本であり淋しい少年達のオナニー・ツールに過ぎなかったそれが、社会を切り取りその底辺を映し出し、映像全体の未来を探る鍵にさえなり始めたのだ。その先端を走ったのが今回紹介する、当時はまだ二十代の半ばに過ぎなかったこの三人の若き映像の作り手たちであった。カンパニー松尾はAVにカラフルなMTV感覚と画面を切り張りするようなヒップポップ的な映像を持ち込むと共に、ハメ撮りロードムーヴィーという新しいジャンルを開拓した。バクシーシ山下は『女犯』や『ボディコン労働者階級』といった異色作で図らずも社会の歪みや差別を浮き彫りにしてしまったし、平野勝之は『由美香』『流れ者図鑑』を劇場公開し、AVと小型カメラの可能性を大きく前進させた。ポストバブルの時代に現れたこの新しい才能は、まるで瓦礫の街を疾走した『AKIRA』のカネダやテツオみたいに見える──」
 しかしそれにしても冒頭に書いたように、ココ五、六年のセル・ブームによってAVの様相は一転した。だからこそその背景となったこれらの作品に今後もコダワッテ行きます。読者の皆さん、どうぞオツキアイを!

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2003年6月号掲載

【第2回】

映画には監督という名の〈神の声〉がある。「ハイ、カット!」
という声がかかれば出演者はいつでも現実に復帰出来る。
しかしそれが無ければ、いったいどうなるのだろう?
VTRというモノが持つとても深く重要な独自性について──。


 平野勝之とはいったいどんな映像作家か? 簡単に言えば九〇年代前半は非常に過激で暴力的な作品で知られ、それ以降は自転車を使った言わばツーリング物とでも呼ぶべき独自にして無比のジャンルの作品を発表して来たAV監督──というような事になるのだが、それ以上にもっと重要なのは、平野がAVの世界でVTRというモノの存在を最も本質的に、そして最も深い部分まで使いこなした作家であるというコトだ。AV、つまりアダルトビデオというくらいだから現在DVDによる作品リリースは多くなってはいても、現場の撮りは今だVTR。つまりはAVというメディアを、実に深い部分まで使いこなした作家だと言える。
 ではVTRの本質って何だろう──? という話に進む前にスチール、ムービーに限らず〈カメラ〉そして〈フィルム=映画〉というモノについて考えてみよう。
 まず〈カメラ〉。デジカメでもカメラ付き携帯でもいいのだが、人間って「撮るよ」とそれを向けられるとけっこう構えますよね。ヘンにテレたり落ち着かなくなったり、ダサイなーと思いつつ「ピース」とか(涙)。それと写真館みたいなトコで写真を撮られた経験のあるヒトは判ると思うけど、アレもけっこうキツイ。「自然にしてくださいね」なんて、余計に難しい。自然、素の自分、そんなのが人間いちばん実はワカラナイ。
 一方〈フィルム=映画〉というモノについて。
 深作欣二監督が亡くなって、最近TVで遺作の『バトル・ロワイアル』の撮影現場風景が流され眼にしたヒトも多いと思うけれど、あーゆーのを見てつくづく思うのは、映画監督というのは何でまたあんなふうにバカデカイ声で「ヨーイ、スタート!」と絶叫せにゃならんのかね、というコト。それにしても深作監督、その時すでに病に蝕まれていた。『御法度』撮った時の大島渚も、病み上がりで車椅子で現場入りしたにも関らず「ヨーイ、スタート」と「カット」の声は周囲がビビるくらいバカデカかったという。
 何故か? つまりアレは「さあココから、リアルな世界とは別の、俺が創造する世界に入るぞ」という合図なんですな。つまり役者はココから自分という人格を忘れ、まったく別の人物に成り切るんである。そして「カット」はハイ、もういいよという合図だ。「ハイ、元の世界に戻ってイイよ」という意味なんですね。つまり、言わば映画監督とは創造の神なんである。そして、「ヨーイ、スタート」と「カット」とは神の声なのだ。では、〈神の声〉がなければどうなるのだろう? というのが、実はVTRの本質である。
「素の自分」「自然な自分」というのが実はいちばんムズカシイ、とさっき書いた。では、何かを演じるというのはどうだろう? そんなの芝居の勉強てもしたプロの役者でないと無理なんじゃないの、と思うかも知れないが、僕はそうでもないんじゃないか、と思う。特にAVというメディアにおいては。

 それをAVで初めてやったのは代々木忠である。まずは創世期の名作『ザ・オナニー』シリーズ。あの中で代々木は人気ピンク映画女優の西川瀬里奈に女子高生を、あるいは〈覗き部屋〉と呼ばれた風俗でピーピング・ショーをやっていた斉藤京子に主婦という役割を与えた(彼女が実際に人妻だったからだ)。そして、ココが重要なのだが、代々木忠は彼女達のその設定だけを与え「このように演じろ」とは一切言わなかったのである。人間というモノは何かを演じる、夢中になるとどんどん内なるテンションが上がって来る、酔ってくる。経験ありませんか? 恋人とケンカしてると、その、自分が怒っているという行為に興奮しさらに怒りが増す。子供を怒る母親なんてのもそうだ。泣き上戸の酔っ払いなんてのも同じですね、人前で泣いてる自分がさらに可哀想になってワンワン泣く。
 映画ならココで神の声がある。「ハイ、カット!」と言われればソコで終れる。あるいはフィルムには物質的限界もある。ところがテープは廻り続ける。デッキが二台以上あればまさにエンドレスだ。出ている者の興奮は止らない。どんどんエスカレートする。果たしてどうなるのだろう? 結果として『ザ・オナニー』では、当時としては前代未聞だった、女性がカメラの前で本気でオナニーに狂ってしまうというスゴイ映像が生まれたんである。しかし、それは果たして誰の意志だったのか? というのが問題だ。代々木忠だったのか、西川瀬里奈ら出演者達だっのか。おそらく違うだろう。では、神の意志はいったい何処にあったのだ? コレがVTRというモノの本質であり、来月以降論旨を展開する《ポストダイレクトシネマ》という概念の大切なトコロなんですね。

 と、コレ以上進めると平野勝之のコトが何も書けなくなってしまうので画面撮りの『ザ・タブー〜恋人たち』について。奇しくもこの作品は高槻彰による「こんにちわ僕は神様です」というナレーションから始ります。この頃の平野の作品には〈神様〉やそれに準ずる表現が多い(先月紹介の『水戸拷悶』では井口昇がブッダ井口、原達也がイエス原という名前で登場する)。これはおそらく偶然では無いと思われる。平野勝之は、意識的に自分を創造者だと考えてこの作品を作っていない。一応、監督=平野勝之とクレジットは出るものの、その実一人の出演者でしかない。これは前述の代々木忠も同様である。神の声を意識的に放棄しているのだ。で、ココには神の創造した四匹の動物が登場する。井口昇演じるカワウソ、原達也のカッパ、杉山正弘のサル、そして甲月季実子演ずるウサギだ。
 ストーリーという程のモノは無いのだが、舞台は人類創世期、ある日ウサギが「赤ちゃんが欲しい」と言い出す所から物語は始まる。ところが誰も子供の作り方が判らない。そこでウサギの膣に生卵を入れたりするのだが、「それでは赤ちゃんは出来ないよ」と両性具有の神であるイチゴが登場する。イチゴは私生活でも甲月の恋人であり、バイセクシャルにして凄いセックステクの持ち主。つまりは現実の背景を反映した役として登場し、SEX下手な井口や原に対し指導し、男女入り乱れた乱交になる。
 全体を取り仕切る神は高槻だ。これはおそらくプロデューサーという立場の隠喩であろう。そして先に書いたように、ココでも最低二台のカメラが常に廻り続けている。カメラは止らない。この場に既存の神の意志はないのだ。杉山が甲月の膣から井口の口に口内発射した辺りからムチャクチャになり、ラストは井口、原、杉山、そして平野、高槻までが浣腸され、その糞便を甲月の身体に撒き散らすというとんでもない展開となる。

 ちなみに本作は一九九三年上半期「ビデオ・ザ・ワールド」AVベストテンの第一位に輝いた。そしてつくづく思うのは、この時にはオウム事件も阪神大震災も、酒鬼薔薇事件も無かったのだ、という事だ。もちろん、9.11も。「平和だったんだなー」と言いたいワケではない。平野も我々も、そう言った狂気や破戒衝動、それに対する脅えというものを実は深く無意識に持っていたのだ。それが神の意志というモノの正体である。詳しくは次号以降に。

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2003年7月号掲載


【第3回】

『フィルムはそれが客観的映像であっても、「シュート(撮影)」するという意思の強さが必要である。映画とは「撮ってるゾ」という芸術的思考が入りやすいメディアだからだby平野勝之』
そんな〈芸術的思考〉と徹底的に戦い続けて来た作家・平野勝之についての考察。


 映画には映画監督による神の声がある、と先月書いた。「ヨーイ、スタート!」「カット」である。この二つの言葉の間は異空間となる。つまり映画監督の創造した世界である。故・伊丹十三に『「マルサの女」日記』という著書がある。キャスティングからロケハン、撮影から編集までを綴った日記だが、撮影一日目のファースト・シーンを撮り終えた後、「ここに今までどこにも存在していなかった世界が出現した」と感慨深く書いている箇所がある。確かロケセットに壮大な雨を降らせ、佐藤B作が小走りに部屋に駆け込んで来るというシーンだった。
 伊丹十三というのは、そう言った「創造された異空間」というモノにすごくこだわった監督だったと思う。黒沢明もそうだったけれど、大量の雨を降らすのが好きだったという点にもその嗜好が現れている気がする。また、一九八一年に浅井慎平がタモリを主演に『キッドナップ・ブルース』という映画を撮った際、以下のような文章を寄せている。これは全編プロット無し台詞はアドリブの即興演出で撮られたロードムーヴィーなのだが、
『ヒッチコックの言を待つまでもなく、プロットというのは観客のエモーションを画面に繋ぎ止めるための装置なのだが、生憎、慎平さんが一番嫌いなのは、自分の画面がエモーションや人間臭さで汚れてしまうことなのだ』と。
 その後、伊丹十三は『ストーリー性の排除というのは俺の映画理論とはまったく相容れないけれども──』と続けている。当時伊丹は監督ではなかった。そして以降、まさに「俺の映画理論」にて数々の傑作映画を作り上げていくのだが、マア、それはそれとして──。
 平野勝之である。

 先々月号でも書いたように平野勝之は8ミリフィルムを使った自主映画作家としてそのキャリアをスタートした。高校卒業後も特に就職や進学はせず、地元の浜松でアルバイトで資金を作り映画制作を続けていた。浜松にはヤマハ発動機のバイク工場が多く、「キツい割に安いバイトだった」といつか語っていた。
「どうしようもないと8ミリフィルムを万引きした。フィルム代だけはどうしてもかかるから」と。
 そんな人間だから、フィルムというモノの大切さと、反面その不条理さを身に沁みて感じていたコトは確かであろう。
 平野は著書『ゲバルト人魚』(洋泉社)にこう書いている。
『フィルムはそれが客観的映像であっても、「シュート(撮影)」するという意思の強さが必要である。それはよーするに機材の重さと金と、最大撮影時間がたった10分という条件と「撮ってるゾ」という芸術的思考が入りやすいメディアだからだ』
 平野勝之とは、その〈「撮ってるゾ」という芸術的思考〉と徹底的に戦い続けて来た作家である。何故だろう? おそらくだが、「撮ってるゾ」という意思の元に撮影された映像は、その時点で“ウソ臭く”なってしまうと考えたのではないだろうか。
 平野の自主映画時代の作品に『砂山銀座』(一九八六年PPF入選)という作品がある。僕自身は未見だが、前掲書『ゲバルト人魚』の中の山崎幹夫さんという方の文章によれば、街の風景や出会った人々を淡々と写していた平野がラスト、「今まではすべてニセモノだ」と呟くと赤信号の交差点のド真ん中にカメラを構えたまま立ち尽くす。そして平野の道を遮られた車とフィルムが切れるまで対峙しあうというモノだそうだ。

 何故平野はそこまで撮影する意思という名のニセモノを嫌悪したのかは判らない。ただ、肉体労働や万引きまでして撮ったフィルムに映し出されたモノがウソ臭いニセモノだと感じた時、そのジレンマは相当なモノだったに違いないと推測される。そしてひとつの仮説として、僕は平野が単なる個人としての人間が“創造の神”として異空間たる映画を作り上げてしまうという点に疑問を抱いたのではないだろうか、と考える。
 これまた先々月に書いたように、平野勝之は自主映画監督になる前は十六才でマンガ専門誌「ぱふ」にてデビューするほどの早熟なマンガ家だった。その当時の事を平野は『ビデオ・ザ・ワールド』誌九三年一月号「平野勝之の監督日記」にこんな風に書いている。
『現実を直視せよ。俺は十九の頃まで自閉症のマンガ家志望であったが、ある日突然カメラを持って外に出た。カメラを覗くと、マンガと違い現実風景はビクともしなかった。俺もセンズリ野郎と共に夢の中で遊んでいたかったが、そうはいかない。夢を犯すには数百の現実とケンカしなくてはならなかった。(中略)そんなわけで、俺のビデオは常に外に向かおうとエネルギーが働く』と。
 十年前、まだ二十代だった平野による非常に尖った、そしていささかヒロイックな文章だが、誤解を恐れず単純に言ってしまうと、マンガで出来ることを違ったメディアたる映画でやったった意味ないじゃないか、ということだろう。十九才の平野勝之は夢の世界ではなく現実と対峙したかった。つまり自身が神になるという映画世界に、強烈な安直さを感じたのだ。初期の作品にやたら安作りでインチキ臭い神(高槻彰や井口昇や原達也が演じる)の登場するのはそう言った意味からだ。
 ただ、今回画面撮りした『ザ・ガマン〜しごけ!AVギャル』を見直してみると、そう言った平野の意思が実は奇妙なパラドックスを生んでいることに気づく。これはボティコン姿のAVギャル4人を(それにしてもこの当時大流行だったこの衣装、今見ると相当奇妙だ!)をとある住宅街の下水道に連れ込んで、まさにガマン大会のようなセックスと罰ゲームをするという内容なのたが、この地下道という空間の現実感の無さ! アンジェイ・ワイダとは言わないが、まるで創造させた映画空間のようだ。
 結局この撮影は付近の住民の通報により、警察隊が出動。下水管理の市職員も大量に派遣されてマンホールが開けられまくり、撮影は中止を余儀なくされてしまうのだが、ボティコン女や平野や井口らが引きずり出されたその住宅街の風景のリアルさたるやまさに“現実”。そう、結局のところ、この後も平野勝之は「現実を撮ろうとすればするほど非現実に彷徨い込む」というパラドックスを歩み始めるのだか、それはまた来月以降に。

 最後に漫画家のいしかわじゅんがネット上で発表しているコラムに歴代のアシスタントのエピソードを紹介しているモノがあるのだが、そこには技術は無いが自分の元で鍛えて漫画家にさせた者、技術才能ともに申し分ないのだが、自分の世界がすでに出来ているので「君は自分なりに頑張りなさい」と帰した者、二つタイプがいると書いている。そして前者の例として原律子を、後者の例で内田春菊と平野勝之をあげ「平野は後にAV監督になり『由美香』を始め面白いAVをたくさん作った」とコメントしている。サスガいしかわ先生、判ってらっしゃる。

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2003年8月号掲載

【第4回】

何故カメラは撮り手の思惑すら超えて暴走するのだろう?
逆に言えば机上の思惑通りに撮った作品ほどつまらないモノは無い。
アダルトビデオ史上、最も遠くまで辿り着いた作品、
九〇年代最高の名作『わくわく不倫講座』、その前編です。


 さあ今月はいよいよ平野勝之による不朽の名作AV『わくわく不倫講座』を紹介しよう。とある文芸評論家が村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を評して「日本文学の中で最も遠くまで行った作品」と書いていたけれど、ソレ風に言えば「最も遠くまで行ったAV」である。もうこんなAVが二度と作られることは無いだろう。それだけ九〇年代のある時期、AVはまったくもって自由だったのだが、それにしてもコレはまったくもって衝撃的な作品だった。
 個人的には、この前年にリリースされたカンパニー松尾による『Tバックヒッチハイカー〜南へ急ごう!』を観た時、もうこれ以上の作品は出ないだろうと思っていた。何故ならそれはやはりAVというのは悲しいかなやはり予算や人員に限界があり、その中では異例とも言える一週間〈東京〜鹿児島〉までのヒッチハイクというロケ、カンパニー松尾というトンでもない才能も必要不可欠であったが、何と言ってもこの作品には旅というモノが生み出す数々の奇跡があり、それがドラマを呼びさらにドラマ呼んで傑作に至ったのである。
 では平野はソコをどのように超えていったのか? それを説明するために前号までシツコク〈ポストダイレクトシネマ〉と書き続けてきた。それと、平野の作品は松尾やバクシーシ山下のそれと比べるとやはり少し判りづらい。AVらしいサービス精神は少ないし、登場人物も身内ばかり(高槻彰、井口昇、原達也等々)で、下手をすると仲間内でギャーギャーやってるムチャクチャなAVと取られかねない。実際問題平野勝之のコトを「AVでサブカルやってるヤツ」としか見てない人は多い。でもね、そういう見方しか出来ないのって、AVに限らず映像を見る上で本当に不幸なコトだよと僕は言いたいんだな。

 で、本題だ。先月〈ポストダイレクトシネマ〉とは「カメラ自身がまるで意志を持ったかのように撮り手の思惑すらも超えて暴走する映画」である、とは言えSF映画よろしくカメラが本当に意志をもつワケじゃないですよ、てなコトを書いた。じゃあ、いったい何故カメラが撮る人間の思惑すらも超えてしまうのであろうか?というコトを主題にこの名作『わくわく不倫講座』を見ていこう。110分の二部構成、今月はその第一部を中心に──。
 この作品の前年、平野は志方まみという企画系のAV女優で『アンチSEXフレンド募集ビデオ』という作品を撮る。このタイトルにはほとんど意味は無い。当時ゴールデンキャンディというメーカーの『SEXフレンド募集ビデオ』というシリーズがやたら売れており、その(かなり悪意のある)パロディだ。内容は平野が私生活で婚約し、その婚約者を連れて故郷の浜松に戻る事になる。その時、実際の婚約者ではなくAVギャルを連れて行き「実はこの娘は婚約者ではなく単なるSEXフレンドなんだよ」と言えば親は怒りまくり大騒ぎになるであろう、それをカメラに収めればさぞ面白い作品になるであろう、という思惑である。
 しかし、結果から言うとこの作品は失敗作であった。平野の両親は彼がAVを撮っている事、AVギャルを婚約者と偽って里帰りした事にさしたる感情も示さず、逆に「マア、この息子の事だ。東京でそのくらいのコトはしてるだろう」と大きな愛情で受け止めてしまうのである。結局、平野が志方と両親と寿司をつまみビールなぞ飲んで和気藹々とした所で物語は終わる。
 ところが、この作品には妙なオマケが付いた。嘘から出た誠とでも言おうか、偽の愛人だった志方まみが平野に好意を持ち、二人は平野の結婚直前にも関わらず愛人関係になる。『わくわく不倫講座』はこうして始まる。平野はテロップでこう語る。「彼女の良いところも悪いところも含めて、ドキュメンタリービデオを撮ってみようと思った」と。ただ、「何故そう思ったのかはよくわからない」とも付け加える。ココ、ポイントです。憶えといてください。

 平野の結婚を祝っての宴会があり、そこには当然のように志方もいる。平野の妻(ハニー平野、と呼ばれる)も、顔出しでちゃんと出演する。平野作品では重要なAV嬢、藤香澄に甲月季実子、そして高槻彰、井口昇、小坂井徹、カンパニー松尾といった仲間達。そして続くのは平野と志方の初めは楽しげながら、しだいにイラ立ち嫉妬しあい、傷つけ合っていく姿である。平野はそれを実にシツコク、これでもかというらい延々と撮り続ける。巧妙な編集とあざとい程のモンタージュで平野は切り抜けているものの、観る側は下手をすれば、「何だって監督の痴話喧嘩見せられなきゃならんのか」と思う。
 さあ、問題はココだ。
 この時点で既に、カメラは平野の思惑を超えている。「彼女のドキュメンタリービデオを撮ってみようと思った」のなら、ココでそれなりの見せ場と結末を見つけ終わり方にする事も出来たのだ。傑作とは言えないが、不毛な愛人ゴッコを描いた小品ドキュメントAVくらいには成りえただろう。しかし平野は志方まみを撮る事をやめない。志方はそんな平野の行為にいい加減うんざりし、疲れ果て、連絡を絶つ。そしてついには電話番号が変えられ、志方まみは遂に平野の前から姿を消す。ココで第一部は終わる。しかし作品は終わらない。なんと第二部は志方まみ抜きで志方まみのドキュメンタリービデオが続くのである。

 何故カメラは撮り手の思惑すら超えて暴走するのだろうか。簡単に言えば、人間の思惑や計画が如何に曖昧なモノであるかという事だ。平野自身、おそらく無意識にだろうがそれを悟っているし巧妙に表現している。前述の「何故そう思ったのかはよくわからない」というテロップがソレだ。果たして自分は本当は何が撮りたかったのか? 実は『アンチSEXフレンド募集ビデオ』の時からボタンの掛け違えがあったのだ。平野は何故前作が失敗したのか気づいていない。だからこそ彼は志方まみを撮ろうと思ったのだ。しかし、平野が撮りたかったの本当に志方まみだったのだろうか?
 逆に言えば、机上の思惑通りに撮った作品ほどつまらないモノは無い。前々回にも書いたが、自主映画監督になる前にはマンガ家だった平野勝之はそのことを知り尽くしていた。アタマの中で考えたコトなんてつまらない。そんなモノは現実の前ではまったく魅力が無い。しかし、じゃあ現実っていったい何なのだ? それは本当に自分の撮りたい対象であったり風景だ。それは確かに自分のアタマの中にはあるもののハッキリと掴めていないモノ、つまり無意識下に潜んでいる現実である。
 カメラが撮る者の思惑を超える。それはカメラが自我を超えてエスの領域へと入り込んでいくという事だ。では、平野勝之が本当に撮りたかった対象と風景、それはいったい何だったのだろう? それは『わくわく不倫講座』の第二部で明らかにされる。
 そこは、アダルトビデオが最も遠くへ辿り着いた場所であった。

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2003年9月号掲載

【第5回】

すべては対になっていた。ホクロと奇病、OLのAV女優、
不倫と結婚生活、愛人と妻。つまり、これは彼岸と此岸の物語なのだ。
そしてカメラを持った平野だけがその彼岸と此岸を行き来出来る。
傑作『わくわく不倫講座』、その後編です。


「アレは要するに『サイコ』なんだよね」と平野勝之が言った。
「フム、ナルホド『サイコ』ね」
 と僕は呟いた。もうずいぶん前、確か酒の席だった。ひょっとしたら平野が所属し高槻彰が主宰するAV制作会社・シネマユニットガスの忘年会だったかもしれない。まっ、場所や時間は曖昧だが彼がそう言ったコトは確か。で、何の話かというともちろん『わくわく不倫講座』のコトであり、『サイコ』とは言うまでもなくアルフレッド・ヒッチコックの名作映画である。御存知の通り『サイコ』ではジャネット・リー扮する会社の金を横領したOLが、アンソニー・パーキンス演じる青年の経営するモーテルに一夜の宿を求めて宿泊するのだが、かのあまりにも有名なシャワー室のシーンで殺されてしまう。映画が始まって1時間弱。つまりは主人公が物語の途中、それも実に中途半端な時間がいなくなってしまうのだ。今ではもう古典だから誰でも知ってる展開だが、当時の観客は「おいおい」とビックリしたハズだ。
 で何が言いたいのかというと、平野勝之は『わくわく不倫講座』は『サイコ』同じ構造なんだよね、と言ったというワケだ。そう、先月号で書いたけれど、志方まみというAV女優のドキュメンタリーにも関わらず、その志方まみは作品の途中でいなくなってしまう。その時点で50分経過。110分作品だら何とも中途半端な時間だ。そして〈第2部・まぼろしの志方まみ〉というテロップが出て後半が始まる。つまりヒロイン不在のまま彼女のドキュメンタリーが続くのである。

 第2部は平野と彼の奥さんがタキシードとウェディングドレスで正装し記念写真を撮っている所から始まる。これはAV撮影も兼ねているという説明がテロップでなされる。要はお金をかけるのもナンなので撮影のついでに結婚の写真を撮ってしまおうというコトだろう。ココで平野と彼の妻の特殊と言えば特殊な関係性が語られる。
 平野は妻に不倫相手である志方まみのコトを相談していた、また、平野の奥さんは彼が仕事でAV女優とセックスする事に関して何とも思わない、等々。この辺りのコトは正直作品を見てもらわないと判らないと思う。平野と彼の妻との関係性、それは言葉で表現してしまうと例えば姉と弟、母と息子というのに近いと表現してもやはり少し無理がある。おそらくお互いに深く信頼しあっているのだろうが、もちろん夫婦らしい嫉妬や不満の感情もあるようで、説明は非常にしずらい。
 マアそれはともかく、その場には〈平野の親友〉とテロップが出る当時の平野作品には重要なAV女優・藤香澄もいて、平野が彼女とのハメ撮りをすることになり別室へ。平野とセックスする藤香澄のアエギ声が聞こえる中、高槻彰による平野の妻へのインタビューが始まるという異様な場面となる。しかし、そこで彼女が非常に重要なコトを語るのだ。曰く「真剣に付き合ってはいたが、特に急いで結婚しようとは思っていなかった。それでは何故結婚することになったかと言うと、それは例の『アンチSEXフレンド募集ビデオ』があったからだ」と。
 高槻はカメラの向こう側で「えっ」と言って苦笑する。先月書いたように『アンチSEXフレンド募集ビデオ』は平野が志方まみを婚約者と偽って故郷に連れて行き、両親に会わせるという企画だ。平野の妻曰く、そうやって偽の婚約者を紹介してしまった手前、本当の婚約者を連れて帰らざるを得なくなったのだという。
 そして、その成り行きを半ば呆れながら聞いていた高槻は、図らずもこの作品の主題を言い当ててしまう。
「平野のヤツ、志方まみ志方まみって妙にこだわってたけれど、実はアイツがこの作品で描きたかったのは貴女を──」
 この場面、実はずっと高槻が思わず主題を言い当ててしまい、そのせいで言葉を失い言いよどんでいるのだと思っていた。しかし今回見直して気づいた。高槻は言葉を失っているのではない、平野が編集で巧妙に高槻の音声を切っているのだ。そう、平野自身もこの時点でこの作品の本当のテーマに気づいている。彼が撮りたかったのは志方まみではない。つまり偽の婚約者ではない、本物の婚約者だったのだ。その意味で先月書いたように『アンチSEXフレンド募集ビデオ』は失敗作だったのだ。では何故平野は故郷に帰るビデオを作ったのか、それはおそらく故郷・浜松には砂丘があったからだ。『アンチ〜』の中で、平野は志方と二人、その砂丘でエンエンとビデオを撮り続けている。それは、その時は「志方を婚約者と偽って親に紹介するという行為に対してためらっているから」と語られていた。しかし、本当にそうだったのだろうか──?

 さて、これ以降が本作のクライマックスであり、アダルトビデオが最も遠くまで行く場面である。クライマックス、それは平野と妻の新婚生活だ。これは不倫に関する作品なので妻との日常が描かれるのは当然であり必然である。朝、OLである妻は出かけていく。AV監督の平野は布団の中でまどろんでいる。柱時計がカチカチ鳴っている。そして、その間に、時間は何故か一〇年進んでいるのだ。西暦2005年(この作品が作られたのは1995年)とテロップが出て、まだまどろみ続けている平野の元に32才になった志方まみが訪ねてくる。演じるのはAV女優の星野瞳だ。彼女は結婚したと語り、二人は昔を懐かしむようにデートをして、セックスをする。それは夢なのか幻なのか(ココで第2部のタイトル「まぼろしの」という意味が生きてくる)。
 そして再び時は流れ西暦2016年、41才になった志方まみが平野を訪ねて来る。彼女は離婚し、見る影もないほど太った中年女になっている。演じるのは女装した井口昇である。さらに彼女は身体中に紫色の斑点が出来るという奇病にかかっている。井口が実にユーモラスに中年女を演じているので気づきにくいが、その奇病にも意味がある。平野の奥さんは顔にホクロが多い人だ。そこがとてもチャーミングな女性なのだが、それが裏側の世界、つまり平野がまどろみながら見ている世界では奇病になっているのだ。ココで論点が明らかになる。つまりすべては対になっているのだ。ホクロと奇病、OLのAV女優、不倫と結婚生活、愛人と妻。つまり、これは彼岸と此岸の物語なのだ。そしてカメラを持った平野だけがその彼岸と此岸を行き来出来るのである。
 ああ、とても重要な所で誌面が尽きてしまった。残念ながら結論は来月に。次回は平野勝之初の、劇場公開AV『由美香〜わくわく不倫旅行』をを紹介しつつ、本作『わくわく不倫講座』の結論にキッチリ勝負をつけますッ。どうぞよろしく。

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2003年10月号掲載

【第6回】

『わくわく不倫講座』は此岸と彼岸を行き来する物語である。
AV女優には死の匂いがつきまとっている。それは甘美な輝きと引き替えに、
彼女達かつねに抱え込まねばならない危険な非日常だ。
平野勝之はAV女優の〈死に場所〉を求め、精神の荒野へ旅立った──。


 先月、平野勝之の『わくわく不倫講座』を巡って「これは彼岸と此岸の物語なのだ」と書いたけれど、実はこの言葉、僕のオリジナルではない。先頃出版された文芸評論家・三浦雅士による『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』という本の中に出てくる。これは表題通り、作家の村上春樹と翻訳家・柴田元幸について書かれた評論なのだが、その前半部、村上のベストセラー小説『ノルウェイの森』について前述の表現がなされるのだ。
 ご存知のように、『ノルウェイの森』は主人公の「僕」とヒロイン直子との恋愛小説である。直子は精神を病み、山深い療養所で暮らしている。「僕」はそこに何度か彼女に逢うために訪れるのだが、そこにはすでに死の匂いが漂っている。つまり彼岸だ、と三浦雅士は書いている。一方、「僕」は大学で緑という名の女の子と知り合う。美しくはかなげな直子と対照的に、緑は快活で溌剌とした女性だ。「僕」がそんな緑と共にいる大学や東京の街はいわば此岸である。つまり『ノルウェイの森』は「僕」が彼岸と此岸を行き来する物語なのだ。
 続いて三浦雅士はバレエの古典『白鳥の湖』を例に引き、これは悪魔ロートバルトによって白鳥に姿を変えられてしまった王女オデットを、王子ジークフリートが救い出す物語であると書く。スワンソングという言い方もあるくらいだから白鳥とは死者の国である。つまりは彼岸だ。これは王子が此岸から彼岸へ王女を救い出しに行く物語なのだ。三浦雅士によれば、『白鳥の湖』にはジークフリートが悪魔に打ち勝ってオデットと結ばれるという結末もあれば、二人して湖に落ちて死に天国で結ばれる、あるいは悲劇のまま終わるという様々なヴァージョンがあるそうだ。
 で、何が言いたいのかというと、

 AV女優って死の匂いがしないか──?

 桃井望《注1》の例を出すのはあまりに象徴的過ぎてフェアではないかもしれないが、彼女達はその輝きと引き替えに、非常に危険な何かを背負っている。僕は個人的に、ヌードグラビア誌の編集者をしていた時からAV監督をやっていた若い頃、その匂いをひしひしと感じていた。
 もちろん大抵の娘は死んだりしない。何故ならば大抵の娘はAVを辞める時、その輝きを手放してしまうと共に、そんな危険な匂いも一緒に捨て去るからだ。要は、普通の女の子になる。そしてやがては普通のオバサンになる。人生とはそういうものだ。逆に言うと、AV女優を辞めて尚、その輝きを持ち続けようとすると、大抵の女の子はけっこう大変な人生を強いられる。しかしそういう元AV女優も少なくは、ない。それだけ、彼女達の輝きはまるで麻薬のように甘美なのだ。
 三浦雅士は前述の本で、彼岸と此岸を行き来するという物語構造はバレエのみならず、能や舞踏、東西の神話すべてに共通するものだと書いている。つまりはユング言うところの集団無意識である。以前、僕はこのページで八〇年代のAVアイドル・早見瞳について、彼女がAV引退後アメリカに渡り、その地でエイズに感染して死んだというまことしやかな噂が流れたと書いた。もちろん、そんなのは決して真実じゃない。ただの噂だ。でもだからこそ、早見瞳には我々の集団無意識を刺激する死の匂いがあったのだ。そもそも七〇年代を代表する石井隆の劇画『天使のはらわた』からして、此岸にいる村木がブルーフィルムに無理矢理出演させられた名美を、彼岸に救い出しに行く物語であった。
 三浦雅士はそれを「冥界下降譚」と呼び、すぐれた物語は大抵その構造を持つと書いている。もちろん、エロ劇画もAVも同じだ。平野勝之は志方まみというAV女優に死の匂いを嗅ぎとっていた。だから志方が彼の前から消えた時、彼岸へ彼女を救い出しに行くのだ。名美を追い求める村木のように。ただ、此処で重要なポイントがある。カメラである。カメラを携えた者だけが冥界への入り口を通過する事が出来る。もちろん、小説なら秀でた文章力、映画ならフィルム、舞踏であれは圧倒的な肉体性ということになるのだろう。しかし平野が撮るのはあくまでAVだ。従って、彼はカメラを武器に彼岸へと向かう。
 
 『わくわく不倫講座』で井口昇演じていた志方まみは、再び時間が経過すると、原達也に姿を変えている。ぽっちゃりとしている井口と対照的に、原はガリガリに痩せている。例の身体中に紫色色の斑点の出来る奇病はもう末期的に進行しているのだ。これこそ、平野が嗅ぎとったAV女優にまつわる死の匂いの象徴だ。
 では彼岸とは何処だ。汚い安アパートで息もも絶え絶えの志方まみ(原達也)は言う。「平野さん、海が見たい」と。そして二人は想い出の地、浜松に向かう。あの砂丘だ。もの凄い砂嵐の中、志方を背負って歩く平野のショットの積み重ねがあり、海にたどり着くことを待たずに、志方まみは死ぬ。
 これが物語の結末だ。次の場面、平野は自宅で妻に起こされる。妻はもう身支度をしていて、会社に行くところだ。しかし平野は妻を引き留め、二人は非常に慌ただしく、セックスをする。服を着たまま、ショーツのみ脱いだけの短い性交である。終わると妻は慌てて口紅を引き直し、「ミルク紅茶作ったから飲んでね」と言い残して出て行く。平野は部屋に残される。そう、平野は此岸に戻ったのだ。また一人、AV女優の死を見送って。画面はブラックアウトし、〈NO PROBLEM〉というテロップが出る。問題ナシ──何故ならそれがAV監督としての日常だからだ。

 考えてみれば、平野勝之という作家はAV女優の死というものにこだわってきたAV監督であった。もちろん象徴的にという意味だが、9月号で画面撮りのみ紹介した『美人キャスターの性癖』という作品がそうだった。これは「台風の中でFUCKする」ことを目的に沖縄のさらに先、東大東島へ向かうという物語だが、同時にヒロインの本多奈々というAV女優の死に場所探しの旅でもあった。彼女は何故AV女優になったのか。それはかつての恋人を忘れるためだった。〈本多〉というのは彼女にSMプレイのすべてを教え込んだご主人様で、妻子ある男性の性、そして〈奈々〉はその娘の名前だと言う。しかし平野と彼女、そして二人のスタッフはその信号がひとつしかないとう、まさに何もない島で台風を待ち続けるものの、結局のところ出会えず東京に戻ってしまう。ところが皮肉な事に台風はその時まさに関東に向かって上陸しようとしていたのだ。
 平野と本多は千葉へ向かい、台風を待つ。そして荒れ狂う暴風雨の中、浜辺でセックスをする。果て、半裸で砂浜に横たわる彼女に〈本多奈々、享年23歳〉とテロップが出た。

 さて、平野勝之による初の劇場公開AV『由美香〜わくわく不倫旅行』である。これもまた、単体AVアイドルであった林由美香が、死に場所を求める物語である。以降、平野勝之は精神の荒れ地たる〈エス〉の世界に猛然と突き進んで行くことになる。そう、カメラという武器を携えて。


《注1》桃井望。2001年デビューのロリ系人気AV女優。2002年、長野県塩尻市の奈良井川河川敷にて、男女の焼死体が発見される。当初は無理心中と言われたが、現在は他殺であった可能性が高いと言われている。(Wikipedia→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%BA%95%E6%9C%9B)

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2003年11月号掲載

【第7回】

平野勝之という作家の最も重要な特性は、カメラを武器にその心の荒野たる〈エス〉に向かって切り込んでいけるという才能である。
つまり、平野は無意識の内に、心の原野と現実の原野たる北海道
という土地を重ね合わせていたのではないか──?


 少し、平野勝之と関係ない話から。
 精神分析学者ジークムント・フロイド博士の最大の功績は、人間の心の中に〈無意識〉という領域が存在することを発見したことだ、と言われている。フロイド以前にもシャルコーやジャネと言った人がそれを指摘していたらしいが、ややこしくなるのでココでは便宜的にフロイド以降としておく。我々は自分の心のすべてを知り、コントロールしていると思っているがそれは誤りだ。心の中で我々が意識出来る部分というのは実はとても小さい。それを〈自我〉という。それ以外は広大な〈エス〉という領域である。〈エス〉はドイツ語で、英語に訳すと〈IT〉の意だ。フロイドは〈自我〉を「良く開墾された農地」のようなものだと言い、逆に〈エス〉とは「人間の手の行き渡っていない原野の如き場所」とした。
 これは僕の個人的な考え方だが、AVでも映画でも音楽でもいいのだが、我々は常にそれによって〈エス〉の部分を刺激されたがっている。〈自我〉の範囲内で理解出来るものは安心は出来るが熱狂出来ない、刺激が無い。つまり〈エス〉とは開墾されたがっている土地でもある。そこを作品によって刺激され、より良いモノだと認識した時、人は快楽を感じる。新しい何かを手に入れた──、そう思う。
 例えばエルヴィス・プレスリーやビートルズが登場した時世界中の若者が熱狂したワケだが、彼らは心の中に「エルヴィスやビートルズみたいな音楽があったら」と思い描いていたわけでは決して、ない。おそらく今まで耳にしたことのないモノ、とんでもない音楽が現れたと思ったに違いない。にも関わらず彼らはそれに熱狂した。荒地だった〈エス〉のある部分が開墾され〈自我〉が拡大した。人間は〈自我〉が拡大されればされるほど解放される。快楽を感じる。そういうことだ。

 さて、平野勝之の『由美香』である。
 作品の冒頭、平野は一人で北海道を自転車で旅して、それを自主制作映画として記録しようと考えていたという説明がある。それを何気なく愛人であるAV女優・林由美香に漏らしたところ、彼女が「私も一緒に行く」と言ったことからこの作品は生まれた。由美香が出る、と言うか主演ならば自主映画ではなくAVにしようということになる。ならば日頃から付き合いのあるV&Rに企画を持ち込んでみよう。しかし、この時既に林由美香はAVデビュー七年目。かつての単体AVアイドルもいささかトウが立ち過ぎていた。そんな作品が売れるのか、という問題がある。そこで当時V&Rの社員であったバクシーシ山下が、企画会議でのオーナー監督・安達かおるの「由美香がウンコを食えば売りになる」という発言を持ってくる。そう、かつてのAVアイドルがそこまでやれば商売にはなるという読みだ。もちろん由美香はそんなのNGである。だったらどうやって彼女にクソを食わそうか、物語の前半はそのように、AV業界のバカバカしくも楽しげな時間が流れる。
 しかしまあ、それは作品を見て貰えば判ることで、ココで長々と書く必要は無い。ただ、ここで判っておいてもらいたいのは、平野勝之の中ではまず由美香ありきではなく、北海道という土地があったということだ。そして以前このページで「カメラが撮る者の思惑を超える。それはカメラが自我を超えてエスの領域へと入り込んでいくという事だ」と書いたことを思い出して欲しい。そして平野勝之という作家の最も重要な特性は、カメラというモノを武器にその心の荒野たる〈エス〉に向かって切り込んでいけるという才能である。つまり、平野は無意識の内に、心の原野と現実の原野たる北海道という土地を重ね合わせていたのではないか?

 ミルチャ・エリアーデという人がいる。宗教学者で哲学者で文化人類学者で小説家だ。その人の著書に『永遠回帰の神話』という本がある。〈祖型と反復〉という副題が付いている。この本の冒頭、古代人がどのように都市や寺院をその地域に配置、建設していったか、ということが語られている。曰く、彼らは天界の星や星座を手本として都市を建築していったそうだ。古代人は宇宙を秩序だった神々しいものと考え、地上を混沌とした不浄のモノと捉えていた。だから宇宙の成り立ちになぞらえて、自分達の地域を作っていったわけだ。だから混沌を表す言葉は〈カオス〉といい、秩序を表す言葉は宇宙と同意語の〈コスモス〉という。
 古代人であれ現代人であれ、人間とはそのようなものだ。無から突然に有を作り出すことは出来ない。つまり祖型があって、それを反復することによって創造はなされるということだ。僕は平野勝之のこの、『由美香』という作品を観た時、大学生の頃に読んだこの本『永遠回帰の神話』を真っ先に思い出した。何故なら、平野の作品は『美人キャスターの性癖』もそうだったが、常に肉体的に過酷な冒険に身を置いていても、カメラはどんどん平野も含めた人物の内面へと深く入り込んでいくからだ。
 また、『わくわく不倫講座』も同様だが、彼の作品はドキュメンタリーでありながら最初こそ淡々と事実を追っているものの、ある時期から違う世界にのめり込んでしまう。つまり、アッチの世界に行ってしまうのだ。先月書いた彼岸の世界である。こんなことが出来る(あるいは、無意識にやってしまう?)のはAVの世界のみならず、映像の世界で僕の知りうる限り平野勝之だけだ。そう、古代人が神の世界と現実を行き来したように、平野のカメラは必ず現実とアッチの世界を行き来する。

『由美香』も最初は彼女と平野の実にだらけきったような愛人生活の描写があり、次に本州をひたすら北上する淡々とした現実が描かれるのだが、北海道に入った途端、カメラは異様なほどに心象風景的になる。もちろん由美香との葛藤があり、多くの旅人達との出会いがあり、カメラは常に現実に引き戻されるのだが、フト気づくとまるで魂が平野の肉体から浮遊するように、カメラは不気味な世界へと漂ってしまうのだ。
 おそらく、その出会う旅人達というのも同様だ。北海道に居着いてバイトと旅をくり返す少年、新潟から徒歩で来た青年、鹿児島からママチャリでやって来た青年。彼らは何故北海道という荒野に惹かれ、そして離れられなくなるのだろう? それは平野同様、現実界の流れ者〈アウトロー〉だからではないか。
 平野勝之ほど現実というものに向かい合おうとしている映像作家はいないとこのシリーズの最初の方で述べた。しかし現実に向き合えば向き合うほど彼は現実と自分との折り合いのつかなさを感じたはずだ。だから平野の作品は現実を写そうとすればするほど不気味に浮遊するのだ。旅人達も同様だ。アウトロー達は自らの心の荒野を開墾したいがために、現実の荒野を祖型とするのだ。以降、平野勝之は『流れ者図鑑』、『白〜The White』とアウトロー、現実の荒野、心のエスに向かってひた走っていく。
 ああ、今月もココで枚数が尽きた。本当は林由美香のAV女優の死に場所としての北海道、礼文島という所まで書きたかったのだが次回に廻すことにする。さて来月はいよいよ最高傑作『白〜The White』へと進んでいきます。読者の皆さん、ついてきてください。どうぞよろしく。


※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2003年12月号掲載

【第8回】

AV女優とは残念ながら一般の女優やタレントのように、
恒常的な魅力を持ち得ない存在である。しかしだからこそ、
その一瞬の輝きにめくるめく魅力がある、
まるで燃え尽きる直前に大きく輝くローソクの炎のようだ──。



 さて、いよいよ平野勝之の現時点での最高傑作、『白〜The White』である。
 10月号の本欄で平野の『わくわく不倫講座』を〈最も遠くまで行ったAV〉と書いたが、その意味でこれは〈日本映画史上、最も遠くまでたどり着いた映画〉である。もちろん、ココで言う遠くとは形而上学的な意味での〈遠く〉であって、行き先の北海道最北端、礼文島・須古頓岬ではない。カメラというものが撮り手の意識を越えて、いったい何処まで行けるのかを示したとてつもない映画である。『白〜The White』の宣伝惹句には「これは冒険の映画ではない、映画の冒険である」とあったがまさに言い得て妙だ。
 ただ、本題に入る前に先月まで紹介してきた『由美香』に関して積み残してしまった問題があるのでそれを先に片付けてしまおう。そう、〈林由美香とAV女優の死〉という問題について、である。

 平野勝之はAV女優の死というコトにこだわり続けた監督である──、と11月号に書いた。そもそも『美人キャスターの性癖』は本多奈々のAV女優としての死に場所探しの旅であり、物語は台風の吹き荒れる早朝の海岸でのセックスが終わり、息絶えたように砂浜に横たわる彼女の姿に「本多奈々、享年23才」とテロップが出て終わる。『わくわく不倫講座』では原達也扮した瀕死の志方まみが平野との想い出の地、浜松の砂丘で息を引き取る場面が象徴的に描かれた。そしてこの後、九〇年代の後半には最後のAVアイドルと言われた小室友里の引退作を撮って(看取って?)いる。
 では、平野勝之は何故そんなにもAV女優の死にこだわるのだろう? 答えは『由美香』の前半部分にある。それは平野と林由美香の出会いから始まっている。
 そもそも平野勝之は林由美香と彼のAV監督デビュー作における主演女優として出会っている。『由美香』から遡ること七年前、九〇年に撮られた『由美香の発情期〜レオタードスキャンダル』(TOYKOパリス)という何とも時代のニオイのするタイトルが付けられた作品において、である。

 以前にも書いたけれど、平野勝之は『雷魚』という長編自主映画を携え、大いなる期待を胸に上京してきたもののまったく芽が出ず、コンビニでオニギリを万引きして食いつなぐような極貧の生活を送ったあげく、一足先にAV監督になっていた自主映画時代の盟友・小坂井徹に「とにかく俺に何か撮らせろ」と半ば脅すように持ちかけたという。そして現れたのが前年の八九年六月デビュー、AVアイドルとしては絶頂期を少し過ぎた頃の林由美香であった。
『由美香』にはその辺りの状況が、その小坂井による証言と当時撮影されたテープを織り交ぜ説明されている。テープは撮影後「撮り残したインタビューを」と、とある喫茶店で交わされた二人の会話が納められているのだが、「撮り残し」とは実は口実で、平野は単に由美香にもう一度逢いたかっただけと説明される。確かに落ち着いてごく普通に応対している由美香に比べ、平野は非常に落ち着きなくアガッている。
 その後、林由美香は九一年にカンパニー松尾による引退作『ラスト尿』をリリースし、いったんは引退するが約一年後に復帰。一方平野勝之は『水戸拷悶』『ザ・タブー〜恋人たち』と傑作、問題作を次々に発表しAV監督として世間に認められるようになる。平野は『由美香』の中で「男としての自信を付けていった」と語っている。つまり、彼は林由美香に対してふさわしい男になるべく、AVを撮り続けていたとも言える。
 こう考えると林由美香って本当に不思議な存在だ。カンパニー松尾が彼女の『硬式ペナス』という作品を撮ることで一つ殻を破った、化けたように、林由美香には無意識の内にAV監督を育ててしまう力が備わっている。まるで巫女のようだ。
 しかし七年後、そうやって自信をつけた平野は由美香と再会し、めでたく恋愛関係になるのだが、その時にはすでに林由美香のAV女優としての旬はとっくに終わっているのである。おそらく、平野はそこで同じ業界にありながらも自分達とAV女優の中に流れる圧倒的な時間のスピード、その違いに愕然としたのではないか。

 スピード感の違い──、これはAV監督をやったコトのある者ならだれでも感じざる得ない感情だろう。いや、インタビュアーやライターでも同様に感じることがあかもしれない。とにかく、AV女優と我々は一期一会だ。それに尽きる。ともかく「会いたい」「撮りたい」「書きたい」と思った時に逢えなければ、機会は永遠に失われる。もしくは逢えたとしても、その対象はもうあまりに変化し尽くしている。
 ヴィデオテープに何かを記録し、定着させたいと願う者にとって、それは耐えられない感覚であろう。何故ならAVとはその女優の、女としての旬、少女としての旬、その一瞬を捉えることに他ならないからだ。それが一般の映画やTVドラマと大いに異なる所だ。一般の女優は熟練した演技や持って生まれた美貌や輝きを保ち表現出来る人々だ。それに対して残念ながらAV女優をそういったモノを持てない人々なのである。しかし、だからこそその一瞬の輝きにめくるめく魅力がある。まるで燃え尽きる直前に大きく輝くローソクの炎のようだ。
 だからこそ、AV女優には常に死の匂いがつきまとう。おそらくそれは女性なら誰でもが持ち得ている隠された魅力だろう。でも大抵の人は公にすることはない。自分の恋人や結婚する相手にある時期見せる、それだけのモノだろう。AV女優達は、それを不特定多数に見せつけるから危うい。いや危ういから魅力的なのか、まるで此岸と彼岸の境目、ナイフのエッジの上を歩いているようだ。だから時に我々は、名美を見つけた村木のように手を伸ばそうとする。

『由美香』は、AV女優・林由美香の死に場所探しの旅であった──、と先月号に書いた。その探し方、そして死に方について此処に書くことは控えよう。ただ本誌の読者ならばこの数年、溜池ゴローや伊勢鱗太朗作品に脇役として登場その存在感を示している林由美香の姿を良く知っているだろう。細っそりと痩せて美しく、そして尚可憐さを失っていない。おそらく由美香は北海道の最果てに、もう古くなって着ようのない単体AVアイドルという衣装を脱ぎ捨ててきたのだろう。
 そして、平野勝之もまた、由美香と共にたどり着いた最果ての地に何かを置き忘れてしまったような作家であった。それが翌年の『流れ者図鑑』へ、そして『白〜The White』へと向かわせる大きなモチベーションとなる。だからこそ、『白〜The White』は故郷浜松の砂丘(志方まみの死に場所)に自らの墓標・十字架を立て、それを蹴飛ばして旅に出るという始まり方をしているのだ。では、平野と彼のカメラがどのように遠くまでたどり着いたのか? 来月以降じっくりと見ていきたいと思います。二〇〇四年もどうかよろしくお付き合いのほどを。

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2004年1月号掲載

【第9回】

高槻彰はかつてこう言った。「AVとは女の裸を撮ることではなく、
女性の心を裸にすることである」と。名言である。
では平野は高槻から引き継いだテーゼでいったい何を撮ったのか。
それはセックス、暴力、そして旅の裏側に移ろう自我ではなかったか──?



 さて、『由美香』について積み残した〈AV女優の死に場所〉という問題にも一応のケリが着き、いよいよ『白〜The White』の本題へと入っていこう──、と思ったらまた別のコトに付いて触れたくなってしまった。スミマセン(涙)と言うのも先日何気なくネット・サーフィン(って古ッ、もう死語ですなコレ)していたら『早見瞳コネクション(※現在は閉鎖)』というサイトを見つけてしまったのだ。マア、おそらく早見瞳に思い入れのある古くからAVファンの人が作っているページなんだろうなと思ってアクセスしてみたら、ナントこれが早見瞳さん本人が立ち上げたサイトらしく、熱心なファンの人達による画像の提供や細かい作品リストと共にご本人によるBBSへの書き込みや、『瞳らんど』と題された連作の日記風エッセイもアップされているのである。
 何故こんなことを書くかというと、本欄、去年の12月号に志方まみや林由美香、さらには桃井望を巡って「AV女優って死の匂いがしないか──」というようなコトを書き、その際、かつて早見瞳がアメリカへ渡りその地で客死したというまことしやかな噂が流れたことがあると記したからだ。
 繰り返しににるけれど誤解の無いようにその、〈死の匂い〉というものについて説明しておく。これは文芸評論家・三浦雅士の説だが、古今東西の恋愛譚はそのほとんどが、主人公が彼岸(死の世界)に捉えられたヒロインを此岸(現実界)から救いに行くという構造を持っている。主人公がヒロインを救ってハッピーエンドになる場合や、あるいは救えずに二人とも悲劇のうちに死ぬなど、いくつかのパターンはあるそうだがその基本的な構造はバレエの古典『白鳥の湖』から村上春樹の『ノルウェイの森』まで変わらない、というのが三浦説である。
 で、村木が名美をエンエンに求め続ける石井隆の『天使のはらわた』シリーズを例に出すまでもなく、我々(の一部?)はAV女優にそんな彼岸のヒロインを重ね合わせやすいのではないか、というのが僕の見解である。何故なら我々がAVをそしてAV女優を見る時、もちろん最初の動機としてはそこにエロやセックスや、女性の可愛らしさや美しさを求めるのだろうが、同時にこの日常の世界から消し去られてしまった、あるいは疎外されている何かを見てしまうのだ。それおそらく、エロや性というものが普段は日常から隠蔽されているものだからであろう。故にそれに触れる時同時に、忘れ去られている何かを感じてしまうのだ。我々は誰しも、多かれ少なかれ疎外感を持って生きている。だから我々はAVを見る時、AV女優に対し、自らの抱いている疎外感や孤独感を投影してしまうのではないだろうか。

 しかしその投影や思い入れというモノは、甘美であるが故にとても危険だ。それが先に書いた〈死の匂い〉の意味でもある。早見瞳さんも前述のエッセイ『瞳らんど』の中でストーカー体験の恐怖──自室に戻ったら何者かが花束とメッセージ・ビデオを残していた!──や、AV女優であった事への社会的な偏見、さらにはそういった重圧から死を決意した時もあった事などを綴っている。
 ただ、そのエッセイがとても感動的なのは、彼女がAV女優、AVアイドルであった頃の自分を決して消去せずに、今もしっかりと向かい合っていることだ。つまり、AVファンにとっての甘美さの裏側に危険があるように、AV女優にも重圧や偏見とは裏腹にやはり限りない輝きがあるのだ。文章から感じるだけだが、早見瞳さんはその輝きを大切にするために、それらすべての重圧や偏見に正面から立ち向かっているように思う。
 確かに八〇年代のAVと現在のそれとはかなり違う。しかし、そこに流れる本質的なあり方、つまりは女の子達の輝きとそれに相対する偏見は変わらないだろうというのが僕の考え方だ。だからこそAVは裏ビデオや素人投稿ビデオとは違った深い面白さがある。そこは変わらない。早見瞳さんもそのエッセイの中で桃井望の事件や倉本安奈の掲示板に言及している。古いAVファンだけでなく、一度は覗いて欲しいサイトである。

 で、何故こんなコトを延々と書いたのか。それは平野勝之自身のあり方と、彼が何故『白〜The White』という作品に辿り着いたのかという問題と決して無関係ではないからだ。
 言うまでもなく平野勝之はAV監督である。そして北海道という地を舞台に、AV女優・林由美香との不倫旅行を描き『由美香』という作品を撮った。そしてその翌年、自主映画作家で女優の松梨智子を急造のAV女優に仕立て上げ、彼女をパートナーに再び北海道へ赴き、『流れ者図鑑』という作品を作る。そして今度はいったい何故、たった一人で極寒の北海道を自転車旅行して『白〜The White』を撮るという行為に向かわねばならなかったのか。
 それは、早見瞳という八〇年代のAVアイドルが、現在はごく普通の生活(シングルマザーとして自立してお嬢さんを育てておられるらしい)をしながらも、かつてのAV時代を見つめている、というコトととても似ている。
 つまりは、AVを撮るっていったいどういうコトなんだろう、という根元的な問いである。アダルトビデオの創世記、女の裸を、セックスを撮ればそれでAVとして成立するわけではないというジレンマがあった。それを克服したのが代々木忠、小路谷秀樹という作家であり、それに続いたのが早見瞳を始めとするAVアイドルを手がけたさいとうまことである。そして平野の師匠であり、小路谷やさいとうの後輩に当たる高槻彰はかつてこう語った。
「AVとは女の裸を撮ることではなく、女性の心を裸にすることである」と。名言である。
 そして九〇年代になり、AV制作におけるハードが3/4インチテープやベータカムから8ミリビデオカメラ、さらにはDVカムと小型化するにつれ、撮る側、つまりは自分自身の身も心に裸にする必要が生まれる。それがカンパニー松尾を代表とする〈ハメ撮り〉を使った手法であり、同時にそれは撮る側の自我の移ろいまで表現することであった。

 先々月、一月号に「平野勝之ほど、現実を撮しながらもそのカメラがアッチの世界に行ってしまう、そんな作家はいない」というような意味のことを書いた。何故なら、平野はAV女優を、セックスを、暴力を、そして旅を撮りながら、実はその裏側にある自らの自我の移ろいを描いていたからだ。だからこそ平野のカメラはまるで現実から浮遊する幽霊のように、フラフラとアッチの世界を漂うのである。
 では我々は平野のカメラを通していったい何を見るのだろう? 来月からは『白〜The White』をテキストにして、具体的にその事例を説明していきます。この連載もまたアッチへフラフラ、コッチへフラフラの連続ですが(涙)ヨロシクお付き合いのほどを。切にお願い致します。

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2004年2月号掲載


【第10回】

本来撮るべきだったのは元々彼自身の自我の移ろいであった。
だからこそ、今度は何もない真っ白な風景が必要だったのだ。
極寒の地も気候も冒険もすべて手段であった。平野勝之の自我を描くための手段に過ぎなかったのだ──。


 あれは確か、平野勝之が松梨智子を連れて二度目の北海道自転車旅行に出発する少し前、それを記念するイベントの終わった後だったと思う。場所はロフトプラスワンの楽屋だった。
「何て言ンうかなあ、とにかく大切なモノを北海道に置き忘れて来ちゃったような気持ちなんだよね」
 と平野が僕に行った。「だから取り敢えずそれを取り戻しに行く、というような」と。
 その旅行は『流れ者図鑑』というタイトルになって劇場公開され、AV作品としてもリリースされた。宣伝用のプレスシートには広大な北海道の原野にバニーガールのコスプレをしてポツンと立ちつくす松梨智子の写真が使われ、「追伸、由美香様」というキャッチコピーが付けられていた。
 
 つまり、平野勝之は『由美香』で積み残してしまった荷物をもう一度背負うかの如く『流れ者図鑑』を作った。しかしまた尚、彼は『白〜The White』を撮るために北海道へ向かうのである。これは何なのか?
 僕はこう考えた。仮説と言っても良い。そもそもこれらの時点で、平野が撮りたかったのは由美香でも松梨でもなかったのではないか。そして北海道を旅するアウトローなチャリダー達でもなかった。だからこそ流れ者達すら漂わない極寒の北海道を自転車で横断するという無茶な撮影旅行を思いついたのではないか。
 ココまで書けば本稿を熱心に読んでおられる読者の方はお気づきだろう。これは『アンチSEXフレンド募集ビデオ』から『わくわく不倫講座』への流れとまったく同じだ。私生活で婚約中だった平野は志方まみというAV女優を偽の婚約者に仕立て上げ帰郷する。彼のもくろみでは、そんなことをすれば親は嘆き激怒しムチャクチャなことになる。それをカメラに納めれば面白いのではないか? というコトだった。しかしその予想は見事に外れる。平野の親はこの息子ならその程度をコトをやらかすのは当然といった態度を示し、作品は平野が両親とAV女優四人で仲良く鮨をつまみビールを飲む場面で終わる。
 しかしコレには思わぬオマケが付いた。当然「今度は本物の婚約者を連れて来い」というコトになりバタバタと結婚が決まってしまい、さらには偽恋人だったはずの志方とは恋愛が始まるハメにすらなり、平野は彼女との不倫生活のドキュメントを撮ろうとと決意する。これが、『わくわく不倫講座』の初期衝動である。
 ところが、作品の途中で、実は平野が撮りたかったのは志方ではなく、妻であったということに気づく。そしてAV女優・志方まみの死に場所は、平野が少年時代に愛した故郷浜松の砂丘であった──、というような話は数ヶ月前に書いた。そして『白〜The White』はまさにその、静岡県浜松市中田島大砂丘から始まるのである。

『白〜The White』の冒頭を見てみよう。
 まず黒味の画面に白字で〈1998年、12月〉と出る。遠くで学校の放課後を思わせるチャイムがかすかに鳴り響き、〈静岡県浜松市中田島大砂丘〉と出る。黒がフェイドで明けると、砂丘で遊んでいる幼稚園生らしい幼児の一団が映る。そして次のカットは砂丘にポツンと立つ平野の姿。逆光で表情は見えにくいが平野は画面右を見ている。また、遊ぶ園児達のカット。再び平野。これで園児のカットが彼の見た目であることが判る。
 そこに平野の妻によるナレーションが被る。〈江戸時代の冒険家・間宮林蔵は旅に出発する前、故郷に自らの墓を建てたと言われている。自分が生きて帰ることがないかもしれないと覚悟したのだろう。そして、この男もそれに習うことにしたようだ〉。ココで立ちつくしていた平野が何気なく歩き出すと、背後には流木で作られたのだろう、十字架が現れる。しかし〈が、気が変わったらしい〉という言葉と共に平野は十字架を蹴倒しストップモーション、北野雄二セクステットによるアコースティック・ジャズによるテーマが流れる。何度見ても鳥肌が立つほど秀逸なオープニングである。
 何故か? それはこの短いカットの積み重ねの中に、この『白〜The White』という映画の本質が見事に表現されているからだ。冒頭のチャイム、遊ぶ子供達、それを見ている平野、これは何を現しているのだろう。続くナレーションでは何故この旅を故郷から始めるのかという点について、やはり何が起きるか判らないので一応親の顔くらい見ておこうと思ったと説明され、どうせなら子供の頃よく遊んだあの砂丘を出発点にしようと思ったと語られる。

 何処か懐かしいようなチャイムの音、子供達のショット、これは平野の心の内を現しているのではないか。そして何故、十字架を蹴飛ばすのだろう。この映画の公開時、プレスシートに書かれたキャッチコピーは「これは冒険の映画ではない、映画の冒険である」であった。つまりこの時点で平野はこの撮影が「冒険を描くことではない」ということをハッキリと表明しているのだ。では何を撮るのか、言うまでもなく平野勝之自身の心の内である。そして心の動きでもある。二ヶ月前のこの連載で、平野勝之は自身の自我の移ろいを描くことの出来る希有な作家であると書いた。つまり、平野が撮るべきなのは由美香でも松梨でもアウトロー達でもなかった。そして北海道の原野でもなかったのだ。だから物語の後半はほぼ真っ白な、雪で覆ったのではく、まるで白に消去されてしまったような風景が続く。そして、まさにそこにこの映画に『白〜The White』というタイトルを付けねばならなかった意味があるのだ。
 平野が本来撮るべきだったのは元々彼自身の自我の移ろいであった。それは『わくわく不倫講座』の途中、志方まみが失踪したあたりから見え始めていた兆候であった。しかしそれは林由美香という強烈な個性と、彼女のAV女優としての死に場所探しというテーマに隠され、さらには北海道を漂う流れ者達によって覆い隠されてきた。だからこそ、今度は何もない、真っ白な風景が必要だったのだ。極寒の地も気候も冒険もすべて手段であった。平野勝之の自我を描くための手段に過ぎなかったのである。

『白〜The White』は公開時、残念ながらそれほどの話題にはならなかった。もちろん、普通の映画のレベルから言えば非常に小規模な低予算映画であるから致し方ないのだが、それでも僕はおおかたの人達がこの映画を「冒険の映画」として見てしまったからではないかと考えている。冒険として見るとあまりに地味だ。いや、所詮どんな大冒険もその内情は実に地味なはずだ。チョモランマの登頂なども、高所では一日数十メートルの登りの繰り返しだという。もちろんその地味な繰り返しを大冒険のように演出することも可能だ。しかし平野が描くべきことはそれではなかった。そういうことだ。
 さて気づいてみれば平野勝之編も来月が11回目。つまりとうとう一年近く続けてしまったというワケだ。で、来月はいよいよ『白〜The White』完結編になります。なにとぞお付き合いのほどを。

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2004年3月号掲載


【第11回】

僕はこのラストを見るたび『明日のジョー』の最終回を思い出す。
かつてマンガ少年だった平野勝之はちばてつやのファンだそうだが、
ホセ・メンドーサがセコンドのカバレロに「ジョー・ヤブキはもう死んでいるはずだ」という場面である。


 さて、約一年に渡ってシツコクこだわり続けた平野勝之編も今回でいよいよ終了です。最後に何故、ここまで平野勝之というAV監督、あるいは映画作家についてこだわり続けてきたか、というコトについて少し書いておきます。それは九〇年代の初頭から半ばにかけて、アダルトビデオというメディアにおいて革命的な方法論の進化があったということなんですね。それは言うまでもなく8ミリビデオカメラ、続いて登場した小型DVカムというハードによって、AVというものが根本から変わってしまったということです。それを、二〇〇〇年代も半ばにさしかかった今この時点で書き記しておきたい。それが僕の想いでありました。
 小型カメラによっていったい何がドラスティックに変わってしまったのか? それは誰でもが簡単にAVを撮れるようになったとか、ハメ撮りが可能になったとか、低予算で撮影が組めるようになったとかという些細な点では断じて、ない。大切なのは《カメラが作り手の内面まで深く入り込めるようになった》というコトです。

 象徴的なのはやはりカンパニー松尾でしょう。彼はハメ撮りという手法によって、一見女の子の表情をリアルに捉えているように見えて、実は彼自身の心(=自我)の移ろいを映し出していた。だからこそ松尾のハメ撮りはリアルだったワケです。見る者は松尾の心情にシンクロした。だから彼の見せるセックスは決して他人事ではなかったワケです。これは、八〇年代初頭に小路谷秀樹と代々木忠が早くも予見しながらも誰にも越えられない一線だったワケです。この点は、今後またこの連載で何度も登場するテーゼですから憶えておいてください。
 この松尾の手法は継承という意味でなく、同時代を共有していた優れた才能に影響を与えました。バクシーシ山下はその自我の移ろいを〈社会〉というモノに向けたし、高槻彰は〈個々の人間〉というモノに向けました。あるいは井口昇のように、自分自身の中にある〈物語〉というモノに向け、今までになかった新しいドラマを作った人もいます。何が革命的であったのか? それは自我というものを触媒にすることによって、それまでのAVも含めた多くの映像が描ききれなかったリアルな〈社会〉や〈人間〉や〈物語〉を捉えることが出来るようになったということです。
 そんな中で平野勝之という人は最も自我の移ろいというモノに敏感な人であった。「平野のカメラは時に現実の世界を離れ、アッチ(彼岸)の世界に行ってしまう」と一月号で書いた。それが平野勝之の最大の特徴です。そして映像作家として最も優れた所であります。何故なら、我々の脳というものは、決して常に現実のみを見ているだけではないからです。夜眠れば夢を見るし遠い昔をリアルに回想することもあり、空想し妄想し、人によっては幻覚や幻聴を体験する人もいる。だからこそ平野のカメラは時にアッチの世界を映し出すワケです。

『白〜The White』においても、物語半ばまでは例によって淡々とした現実が繰り返される。しかし、カメラが北海道へ渡った頃から少しずつ狂気のようなものが見え隠れし始める。いやそれ以前、東北、下北半島に突入し道路がアイスバーンと化す時、我々はすでに未見の映像体験をする。フルスピードで雪道を滑り傾きよろける主観のカメラ、試写会の時、僕の隣で一緒に見ていたカンパニー松尾は、思わず「恐い!」と呟いた。そう、我々は遂に平野の心象風景に入り込んでいるのだ。そして僕達は平野の眼に入り平野の肉体の一部となって北海道を疾走する。
 そこからカメラは少しずつアッチの世界へ行き始める。まるで糸の切れた凧のようだ。二月の半ば、登別のホテルで三泊する辺りまでは、そこの従業員である若い女性に「恋をした」というようなテロップがあり、平野のカメラはまだ現実に留まっているように見える。しかしその約一〇日後、塩狩峠を越える頃から平野の視線は次第に現実感を失っていく。ちょうど、九〇年前に列車事故で亡くなった人の礼拝にキリスト教徒の人々が集まり賛美歌を歌う場面に遭遇し、その歌声が峠を下っていく平野の姿に被るシーンは何度見ても異様な美しさである。まるで平野の魂が自転車を漕ぐ肉体からゆっくりと離れ、空中を浮遊していく様を見るようだ。

 いや、そもそもその二〇日前、札幌までまだ二〇〇キロ、礼文までまだ約三〇〇キロの八雲という地で、深夜に平野がテントの中で泣く場面がある。「今まで一五〇〇キロ走ってきたけど、もう疲れた。もう嫌だ……」と。まるで、その時点で平野の肉体は限界まで来ていて、後は彼の魂だけが最北端の地を目指して走り続けているようだ。
 二月の末、美深から音威子府村を越える付近からタイヤとギアの凍結が始まる。急遽ガソリンスタンドに駆け込みジェットバーナーで自転車ごと解凍する場面もあるが、何故かスタンドの従業員も平野も一切口を聞かないのが不気味だ。その少し前から平野は道中出会う犬や猫としかコミュニケーションを交わさなくなっている。まるで人間の部分が消え去って行くようである。
 そして、三月に入り大志内峠を越えるところから一切のテロップも声も無くなり、画面は真っ白な吹雪と強風の音声のみとなる。僕はこのラスト約一五分を見るたび『明日のジョー』の最終回を思い出す。かつてマンガ少年だった平野勝之はちばてつやのファンだそうだが、あのホセ・メンドーサがセコンドのカバレロに「何故だ、ジョー・ヤブキはもう死んでいるはずだ」と訴える場面である。まるで平野の肉体はすでに死んでいるのに、その魂だけがゴールを目指しているようだ。また、風景もまるでこの世の物とは思えない。あの『流れ者図鑑』に於いてライダーの青年に松梨智子とセックスしないかと持ちかけるべきか否かと迷う、あの印象的な稚内の湾岸の建物はまるで核兵器で人々が死に絶えた後の廃墟のように見える。
 いよいよラストゴール地点。礼文島スコトン岬を前にして、カメラすらもその場に置かれ、海へ向かってゆっくり下りていく自転車の姿が映される。不思議なことに、そこに冒険の達成感といった感情はひとつも無い。まるで平野の肉体も意識もすべてが擦り切れて、魂だけがフラフラとゴールへたどり着いたようだ。それを象徴するように、赤字に「白〜The White」と白抜かれた旗だけが強風にあおられるのがラストカットである。

 先月も書きましたがこの『白〜The White』という映画は決して多くの人々に絶賛されたものではありませんでした。それは、九〇年代に作られた画期的なAVと同様です。大抵の作品が「ああ、そう言えばあったね」とかたづけられてしまう。AVとは(自主映画も含めて)所詮そういうものだという考え方もあるでしょう。ただ、そういった優れた作品が存在していたから現在のインディーズを含むAVが存在するワケで、また、現在劇場公開中の井口昇作品『恋する幼虫』のような新しい、魅力的な映像に繋がっているというコトを忘れたくないです。そんなワケで来月からはその井口昇監督の九〇年代の作品に迫ってみたいと思います。乞う、ご期待!

※『ビデオメイトDX』(コアマガジン)2004年3月号掲載

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4月12日(木)「こんな時だからあえて、恋を“自粛”しない生き方」
島田佳奈 (All About 恋愛ガイド)

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